俳句

石川桂郎

俳人、神蔵器(かみくらうつわ)による月刊正論「師の相貌」を読む。

昭和2年に鶴川村(町田市)の農家に生まれた神蔵の人生を決めたのは、生涯の師となる人との偶然の出会いであったという。

「俳句で飯を食っている人が近所にいるから行ってみないか」と友人に誘われ、神蔵は興味本位で石川桂郎の家を訪ねる。(当時、敗戦で荒廃した都心を逃れ、石川は鶴川村に疎開していた。)

「あれは昭和22年の2月のことです。寒い夜でした。桂郎先生は突然訪ねて来た私と友人のために、乏しい炭を使い切って部屋を暖めてくださいました。先生はまたいらっしゃいとおっしゃてくださいましたが、その時はまだ俳句をやろうなんて思ってもいませんでした。ただ、先生がくべてくださった炭のお返しはしなきゃならないと思いながら辞したのです。後日お礼のつもりで炭俵をかついでいくと、今度来る時は俳句を持ってきなさいと言われました。」

半月後、神蔵は自作の俳句を持って石川を再訪する。その中の一句「春泥や足跡ごとの水溜り」を、石川はすぐさま「春泥や足跡ごとの水明り」と改める。

「これで俳句への関心がわき、桂郎先生についていこうと決めたのです。面白いことにその帰り道、蛙の鳴き声が聞こえることにきづいたんですよ。俳句を意識すると、自ずと神経が自然に向かうんですね。」

以来、神蔵は桂郎の弟子となり、桂郎が創刊した「風土」を今、主宰として継承している。俳人がよく使う「俳縁」という言葉は、このように深く強い縁であるのだろう。

「あまり寒く笑へば妻もわらふなり」 石川桂郎 

昭和22年作句。句集「含羞」所収。季題は「寒し」で冬。「一片の炭無し」と前書きがある。トケオ

Photo 石川桂郎

 

香りへの旅

 
週刊文春11月20日号を読む。和田誠の表紙絵のタイトルは「鹿の遠音」(しかのとおね)。ほぼ原寸のパキスタン土産の鹿の置物の絵は、鼻の先が緑青らしくて少し緑色になっているところが愛らしい。

いつも読む穂村弘の「私の読書日記」に、中井英夫著「香りへの旅」の文章が引用されていて印象に残る。

「香りだけを主題にした文学作品、それも現代を扱ったとなると、日本にどんなものがあるのだろうか。さしあたってすぐ思い浮かぶほどのものがないのは、やはりそれがあまりにとりとめなく、主題になりにくいせいで、部分部分に煌く一閃は、ついに次の一句に及ばないかもしれない。 『香水の香ぞ鉄壁をなせりける』 中村草田男」

穂村氏は、「物理次元では『香水の香』が『鉄壁』をなす筈がない。でも、単なる比喩という以上の力を感じる。そこに浮かび上がってくるのは、別次元の現実だ。凄いなあ。草田男はもちろん、中井さんの選句眼が。さすがに編集者として、寺山修司や塚本邦雄を見出した人だ。」と書いている。トケオ

Photo_2 中井英夫




自由な俳句

  かつて、画家のジャン・デュビュッフェっていう人は、普遍性だけを純粋に信じる芸術家達を否定し、むしろ作者の根底から自然に沸きでてくるような芸術作品を「アール・ブリュット」(生きの芸術)と呼び、その対極に位置づけた。

  今では、専門的な美術教育を受けていない人たちの、作家意識に縛られない造形を指し、英語で「アウトサイダー・アート」と呼ばれている。

  このような制作態度は、俳句を作るとき大いに見習いたいと思う。(トケオ)

  Photo ジャン・デュビュッフェ

コゾコトシ ツラヌク ボウノゴトキモノ

  「去年今年貫く棒の如きもの」

  高浜虚子が、昭和25年の暮れに、翌年の新春番組用につくった作品のなかの一句。

  「大自然の流転に比べ、世相の転変は所詮烟霞のごとし」(飯田龍太)

  「去年といい今年といい、眼に見えない断層を人は感じる。虚子はそのつながりを一本の棒の如きものと断じた。」(山本健吉)

  敗戦から5年、日本もようやく立ち直りつつあった頃だろうか。紅白歌合戦の放送開始も翌年からである。(トケオ)

  Photo

  棒鱈

眼ぎりじゃ

  中村草田男の随筆「句作の思い出あれこれ」を読んだ。

  草田男が二度目の神経衰弱で大学を休学していた昭和3年頃の話。草田男は、「使徒型」の主義者である白川晴一に、「句帖を、ひとつ、お見せな」(「見せてみろ」という松山言葉)と言われる。句帖を受け取った白川は丹念に各頁を黙読吟味し、最後に到るや、素気なく、それを畳の上に投げ出し、「眼ぎりじゃ」(「眼ばっかりだ」)と呟く。息をのむようにしていた草田男は、この「眼ぎりじゃ」を喰らわされ、その都度、又かと、がっかりせずに居られない。

  ある時、「鶏の駆けきて冬の日向かな」という句を草田男が好きになって、感想を述べていたら、白川がwith a wide smile(唇をとじたまま含蓄のある笑いを浮かべること)といった表情で、「ちょんぼり溶けてみだしたようだな」(「少しは溶けてみだしたようだな」)と呟く。こうして草田男は「眼ぎり」の状態から、対象の中へ溶けこむ兆しが見えだしたという「おみとめ」にあずかったわけだ。    なんか、いいなあ、この話。(トケオ)

    Photo_2

松山高等学校在学時代、父母と共に。中央が草田男(大正13年)

 

寺田寅彦の俳句

  今そこに居たかと思ふ炬燵かな

  寺田寅彦(1878~1935)の俳句です。

  妻を亡くしてかなり切ないんだけど、極めてクールで冷静でもあろうとする寅彦の態度がよく出ているんじゃないかなと思う。寅彦は「歳時記は日本人の季節感のインデックスである」っていう名言を残していて、随筆なんかにも芸術感覚と科学精神の調和があるし、しかもあったかい人間味にあふれているんで、これからの季節炬燵なんかに入りながら読むと心地いいんだよね。(トケオ)

  Photo_8 寺田寅彦

 

青木繁の俳句

  麦秋の狐とらへし噂あり

  「画壇のナポレオンたらん!」とする九州久留米生まれの洋画家、青木繁(1882~1911)の俳句。彼の息子が尺八の福田蘭童(笛吹童子で有名)で、その息子がクレイジーキャッツの石橋エータローっていうのが、「釣り」とか「料理」とか「音楽」とかでつながっていて、まったく私にとってはおもしろいところ。

  そういえば、マンガ「包丁人味平」に石橋エータローは登場していて、料理勝負をテレビ中継で実況していたっけ。あとあんまり関係ないけれど、久留米ブリヂストンの石橋美術館の設計は、若き日の菊竹清訓で、のちに大阪万博のエキスポタワーや沖縄海洋博のアクアポリスなどのメタボリズム的、ウルトラセブン的作品を発表するんだけれど、いったい何が書きたいのか解らなくなってきたからこのへんでやめますが、そうそう松田聖子やラーメンだけじゃなくて、久留米って何だかすごいパワー持っているんじゃないかっていう話なんだよね。(トケオ)

  Photo_2 アクアポリス

 

大佛次郎の俳句

  秋天に大きく通る悔いの影

  「鞍馬天狗」で有名な大佛次郎(1897~1973)の、がん病棟での病床日記「つきぢの記」に出てくる晩年の俳句。病室から秋の空をながめる大佛の心に何か引っかかる後悔のようなものがあるとすれば、それは家に残してきた愛する猫たちのことではないだろうか。それはどに大佛の猫好きは有名で、生涯に飼った猫は500匹以上にのぼるといわれている。                                                            

 「来世というものがあるならば、そこにも此の地球のように猫がいてくれなくては困る」と言い、 「死ぬ日がきたら、臨終までの数時間は一生に飼った猫たちを順に思い出して明るいものにしたい」と言う大佛の気持ちは、私にも少しわかる気がする。昨年死んだ猫のことを思い出す時、いつも「もっと一緒にいてやればよかったなあ」といまだに後悔しているからだ。(トケオ)

  Photo_7 大佛次郎

岸田劉生の俳句

 

 飯うつすにほひに秋を好みけり 劉生

 釜で焚いたご飯の粒が光って、香ばしい匂いが部屋中にたちこめている。(あー腹へってきた。)おひつにうつしているのは、もしかして麗子ちゃん。なんて想像してみたりして。

  劉生の父、吟香は目薬を商い、日本最初の新聞をだし、ヘボンを助けて和英辞書を編集したりしたバリバリのジャーナリスト。(関係ないけど女優キャサリン・ヘップバーンはヘボンと同じHepburnの一族らしい。)そんな父の影響か、劉生は詩や小説もたくさん残している。(トケオ)

  Photo_9 岸田劉生

ルナールと芥川龍之介

今はまって読んでいる本「みんな俳句が好きだった」(内藤好之著)で、ルナール(1864~1910)の「博物誌」は散文なんだけど、俳句のような趣があることを知った。

 蛇-ながすぎる。

 螢-草に宿った月の光のひとしずく!

 蟻-どれもこれも3という数字に似ている。

 青い蜥蜴-ぺンキ塗りたて、ご用心!

そうか!芥川龍之介(1892~1927)の俳句、「青蛙おのれもペンキぬりたてか」は「青い蜥蜴」に対するアンサーソングだったんだ。芥川にはルナールの手法にならった小品「動物園」もあり、

  狐-ふて寝だな。この襟巻め。

  駱駝-お爺さん。もう万年青の御手入はおすみですか。

  大蝙蝠-お前の翼は仁木弾正の鬢だ。

  鸚鵡-鹿鳴館には今日も舞踏がある。

などなど、自由律俳句を読んでいるようで楽しい。  

   Photo_4

 

 

 

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