トケオのつぶやき

足袋のランナー

愛媛マラソンにちなんで、日本人初のボストンマラソン優勝者、田中茂樹のこと。

1951年(昭和26年)、田中はオニツカタイガー(現アシックス)製の指又のある地下足袋型シューズで見事優勝を果たす。

ゴール直後、外国人新聞記者達が血相を変えて「早く靴を脱げ」と田中に迫る。

理由もわからず靴を脱いだ田中に、記者達は安堵の表情をみせたという。彼らは「日本人の足の指は2本しかないのでは?」と疑っていたのである。トケオ

Photo_2 地下足袋型マラソンシューズ

リトル・ドラマー・ボーイ

 今日はクリスマスなので、ビング・クロスビー(1903~1977)とデヴィット・ボウイ(1947~)の歴史的デュエット、「ピース・オン・アース~リトル・ドラマー・ボーイ」を聴く。

  この夢の共演は、1977年にテレビ番組で実現したもので、当時74才のビング・クロスビーが亡くなる直前の貴重な映像でもある。30才のデヴィット・ボウイはちょうどベルリン3部作の頃でメチャクチャかっこいい。

  二人でハモる「ラ パ パン パン~♫」のパートや、「peace on earth...can it be?」(地球の平和はあり得るんだろうか)とボウイが歌うパートがとても良い。

  クリスマスソングの定番「リトル・ドラマー・ボーイ」の歌詞の内容は、キリストの生誕を祝う貧しい少年が、お金がないのでドラムを叩いて、その音色を捧げるという感動的なものである。

  二人の組み合わせは、日本で例えるなら藤山一郎(1911~1993)と坂本龍一(1952~)が、「長崎の鐘」をデュエットするぐらいに価値のあるものだと思う。トケオ

  Photo デヴィット・ボウイとビング・クロスビー

ジャイアンのTシャツ

「 ドラえもん」のジャイアンは図体がでかくて、Tシャツの胸にスペースがあるから、作者やアシスタントたちが自由にデザインしていて面白い。

特にかっこいーのは、「レッド・ツェッペリン」のTシャツ。ジャイアンがツェッペリンのファンであるのは、ロックファンの間で割と有名な話であるらしい。

ウッドストックコンサートで、ジョー・コッカーが「心の友」を演った時、ギターはジミー・ペイジだったから、ジャイアンの口癖である「心の友」とも通じる。

私は、ジョー・コッカーの「心の友」がビートルズの「With A Little Help From My Friends」のカバーだったことに初めて気がついた。ジャイアンも友達が欲しかったんだろううなと思う。トケオ

  Gai ジャイアンのシャウト

多摩川河川敷「たぬきや」

  今月号の「dancyu」(ダンチュウ)に、多くの酒飲みたちが「天国に一番近い飲み屋である」と絶賛する「たぬきや」が掲載されている。多摩川の河川敷に一軒だけポツンと建つ、海の家ならぬ、川の家のような「たぬきや」は、昔行ったことがあるので懐かしく読んでみたが、これほど歴史のある店であったのかと、改めてビックリする。

  創業は昭和10年。当時、稲田堤は両側が桜並木の名所で、花見シーズンには対岸の東京都調布市側から、大勢の客が渡し舟に乗ってやって来たという。なかには芸者を連れたお大尽も少なくなかったようで、周辺には40軒もの茶屋があり、現在の「たぬきや」は最後に一軒だけ残った茶屋であるらしい。

  とにかく店のロケーションが最高に気持ちいい。鉄橋を走る京王相模原線の電車を眺めながら土手で飲むから、ファンはこれを「土手酒」と呼ぶのだそうだ。戸を開け放った茶屋の中を、堤から川へ向けて風が通り抜ける。夕方になると空は紫色になり、虫の声が聴こえてくる。陽が落ちて夜になると、店の灯りだけが残り、とても風情がある。

  私のオススメは、ところてん、焼きそば、カルビーのスナック菓子、かき氷、トマトサワーといったところ。そういえば、同級生のタコイチ君の家の近所だと思う。子供連れOKなので、日曜日にでも遠足気分で一度行ってみてくださいな。(トケオ)

  Photo 「たぬきや」

横浜ホンキートンク・ブルース

  埼玉県は狭山市、ポン酢の実家から、直通電車で横浜中華街まで行ってきた。

  山下公園からホテルニューグランドへと歩き、昔通っていた「鴻昌」っていう中華料理店に行こうと思ったが、すでに閉店していた。そもそも「鴻昌」に通い始めたきっかけは、サラリーマン時代の先輩が「オーナーが、『ザ・ゴールデン・カップス』のエディ藩さんだよ」って教えてくれたからだと思う。調べてみるとやはりそうで、松任谷夫婦が新婚旅行(箱根)に行く前に食事をした店でもあるらしい。

  とりあえず他所で食べてから、タクシーで元町商店街を抜け、港の見える丘公園へ行けば、豪華客船「ダイヤモンドプリンセス」が見えて、大佛次郎記念館の猫の像を撫でて、頭の中では「横浜ホンキートンク・ブルース」が流れて、横浜気分にドップリ浸ってみた。(トケオ)

  Photo 「横浜ホンキートンク・ブルース」 エディ藩

大江健三郎が観た東京オリンピック開会式

  1964年10月10日、東京オリンピックの開会式を国立競技場で観ていた大江健三郎氏の文章を読んだ。(「サンデー毎日」同年10月25日号)

  その視線は、コバルトブルーの空に飛ぶヘリコプターを赤いエビにたとえ、7万3千人の大群衆が待ち受けている様子を、選手も誰もいないグラウンドの欠落、あるいは空虚としてとらえた、客観的かつ冷静なものであった。

  半ズボンをはいたバミューダ島の選手たちや、エロティックなまでに美しい肉体のガーナの選手たちの行進する姿を見て大江氏は次のように書いている。

  「われわれはいまや、車に乗っているときの自分を誇らしく感じ、歩いているときには不安で恥ずかしく感じているのではないか?あの名高い格言『健康な体に健全な精神が宿る』は、実は原典では『健康な体に必ずしも健全な精神が宿るとは限らない』だということだが、このあいだまで屈伏していた若者たちが、その健康な体に健全な独立者の精神を回復しようとつとめている光景は感動をあたえる。」

  開会式終了後、大江氏は薄ら寒い空気に身震いしながら、人波に流されるままに後ろを振り返らず歩いて帰る。振り返れば逆さまの大伽藍が、巨大な空飛ぶ円盤さながら空高く飛び去ってしまっているかもしれないという気がしたからである。

  2020年の東京オリンピックのために、建築家ザハ・ハディドがデザインした、あのカブトガニにも似た新国立競技場について、大江氏はどのような見解を持っているのだろうか。とても気になる。

  Photo 東京オリンピック開会式

石津謙介氏のコチ飯

  ホヤケンに、岡山からのお客様が来店。ご実家が漁師さんだということで、ママカリの話やら、祭りずしの話などなど。ふと、サラリーマン時代に先輩から教わった「石津謙介氏のコチ飯」のレシピを思い出す。 

  先輩曰く、「石津さんはね、岡山出身だから鰆とかコチとかの魚にうるさいんだよ。お前、コチ飯っていうの知ってるか?まずマゴチを茹でて身を骨から外し、布巾にくるんで固く絞り、水気をしっかり切ってからよく揉みほぐす。そうすると、身がサラっとして白い淡雪のようになるんだよ。茹で汁には大根や人参を入れて、酒と醤油で味付けしておく。炊きたてのごはんを器に盛ったら、ほぐしたコチの身をたっぷりと乗せ、汁を野菜と一緒にかけて、熱いうちに食べるんだ。お前んとこ(愛媛のこと)の鯛飯もいいけど、もう少し上品で繊細でな、これがとてもうまいんだよ。」(トケオ)

    

  Photo  石津謙介

 

 

グリーンゲーブルズのアン

  「アメリカ木造住宅の旅」の続きを読む。 

  ペリーの生家は、空間をより大きくするために、屋根の勾配を途中で変える工夫がみえる。「腰折れ屋根」とか、将棋の駒に似ているので「駒形切妻屋根」などと呼ばれるものだ。建物は、屋根裏部屋の天井高を十分に取ってあるから、窓も容易に付けられ、この部分に寝室を設けることができる。

  ちなみに、「赤毛のアン」の原題は「グリーンゲーブルズのアン」といい、アンは「緑の破風」をみせる家に住んでいた。アンもまた、この屋根裏部屋で寝たのだろう。(トケオ)

                                                                       Photo 

グリーンゲーブルズ

向島日活撮影所

  愛媛美術館で「柳瀬正夢展」を観る。

  柳瀬は、向島映画芸術社から1923年(関東大震災の年)に刊行された雑誌「向島」に、同年5月編集顧問として参加し、俳優たちのイラストなどを描いている。

  特に「歓楽の夜のスタヂオ」という題の2枚のイラストは、関東大震災直前の向島日活撮影所の風景をユーモラスに描いてあり、とても興味深い。撮影所は現在の墨田区、旧堤小学校の所にあった。

  柳瀬は、グラスステージの撮影所の様子や、若き日の溝口健二監督の姿を次のように記している。

  「墨田河岸に紫銀に輝く宝石殿の如きスタヂオの景色です。この夜のセットは『813』に於ける大夜会の舞踏場の情景で、陰より送るビクターの音に合して、今男女優入り乱れて大舞踏が始まっています。」

  「三時を過ぎる頃から、はしゃぎ切った踊り子連中も一人減り二人減りして、撮影は淋しい場面となりました。更くる程に冴へ行くものは、カーボンの焼音と溝口監督のしゃがれ声許りです。」

  この時、柳瀬正夢24才、溝口健二26才であった。(トケオ)

  Photo_2  向島日活撮影所跡地の碑

 

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エミルー・ハリスの唄

 図書館で、「エミルー・ハリスのアンソロジー(2枚組)」を借りてきて、さっそく解説を読んでいる。彼女の師であり、よき助言者であったグラム・パーソンズと一緒に、アルバム「GP」や「グリーヴァス・エンジェル」を録った頃の思い出話が面白い。

  「唄うとは何か、なんて実際に教えてもらったわけじゃないわ。彼と一緒に唄っているうちに、最高のカントリー・ミュージックには必ず共通点がある、ってわかったの。フレージングをコントロールすること、感情を抑えることよ。私は離れ業を連発できるような声じゃないから、かえって最良の場所だったのね。メロディと言葉に身を任せればいいと知ったの。大袈裟な感情は、どうせ自然に湧いてくるから、心の奥に沈めておくの。人生の経験を積んで、物事を知れば知るほど、唄った時にほとんど無意識に出てくるわ。それよりも、どんな気持ちで唄うのか、どんな風に曲にアプローチするのか。決まりを設けておくことで、遠くに飛べるようになるのよ。」

  エミルーの言葉は、彼女の歌の魅力をよく表している。まだ十代の頃、彼女はピート・シーガーに手紙を出し、「苦労とは無縁の人生を送ってきた自分が本物のフォークシンガーになれるのだろうか」と悩みを打ち明け、尋ねたらしい。それに対するシーガーの返事は、「フォークソングを唄うのに貨物列車に飛び乗る必要はない」というものであったという。(トケオ)

  Photo  エミルーとグラム