わすれかけの街

海に突き出たもの

ある常連のお客様と、松山の昔話をしていたら、「梅津寺海水浴場の納涼台」は2階建てであったという。私には全く記憶がないのでネットで検索したら、確かに2階建てであった。1930年(昭和5年)に完成した「納涼台」は、当初平屋建てであったが、海水浴客の増加などに伴い1952年(昭和27年)に増築されたようだ。

Photo_2 梅津寺納涼台


写真を見ると、松並木の向こうに伊予鉄の電車が進入してくるのが見える。その向こうに見えるのが「納涼台」である。懐かしい記憶の中にある、梅津寺のシンボル的建造物でもあった「納涼台」は、1984年(昭和59年)の夏を最後に残念ながら廃止され、今は跡形もない。

同じ日の閉店間際に入ってきた、旅行中の女性一人のお客様は、「今日は念願の『足摺海底館』に行ってきました!」という。私が両親に連れられて「足摺海底館」を訪れたのは、もう40年以上前のことだから、まだあの建造物が残っていることに驚かされるが、1972年(昭和47年)に完成した「足摺海底館」は、今も現役であった。

Photo_3 足摺海底館


写真を見ると、「足摺海底館」は大阪万博が生み落とした、まさにそれは「いつかの未来」とでもいえるようなグッドデザインである。調べてみれば倉方俊輔著「ドコノモン」にも取り上げられていて、「増殖できそうな外観は『メタボリズム』的で、展望室は『カプセル』のようだが、もちろん現実に交換や拡張の予定はない。」とあった。とにかくいつまでも有り続けて欲しい建造物のひとつではある。トケオ

山の手美容院

吉行あぐりさん(1907~2015)が、107歳で亡くなった。

20世紀の初めに生をうけた、モダニストとしての彼女を象徴する代表的なものが、「山の手美容院(吉行あぐり美容室)」であるだろう。

1929年、開設当初の建物の設計は、「日本のダ・ヴィンチと呼ばれた男」「すべての僕が沸騰する男」村山知義(1901~1977)。

ベルリンでダダイズムに出会い1923年に帰国。「マヴォ(Mavo)」や「三科」といった集団で活動し、美術・ダンス・建築・デザイン・演劇などにおいて、全方位的な想像力の開放を夢想しながら、宇宙的な多様性をみせた人物だ。

建物は東京五番町(市ヶ谷駅前)にあったが、第二次世界大戦における建物疎開の対象となったため、残念ながら現存しない。トケオ

Photo 山の手美容院 1929

近藤篤山の教え

  高校野球、愛媛県大会の決勝戦をテレビ観戦していて、甲子園初出場を決めた小松高校の校歌を初めて聴いた。

  小松の芽立ち さはやかに

  道前の野は 展けたり

  若人集ふ この岡や

  名も養正と呼ばれつつ

 小松高校のルーツは、江戸時代に学問好きの藩主である一柳頼親が、藩の教育を盛んにするため、伊予聖人と呼ばれた近藤篤山(1766~1846)を招聘して創らせた「養正館」であることを思い出す。

  篤山は男子には「立志」(りっし)、「慎独」(しんどく)、「求己」(きゅうき)の三戎を、女子には「四如のたとえ」というものを教えている。

  三戎の「立志」は「志を立てることが大切だ」ということ。「慎独」は「独りを慎むことが大切だ」ということ。「求己」は「己に求めることが大切だ」ということである。

  「四如のたとえ」を解りやすく言い直すと、「目上の人に仕える時は、布団を敷くようにホッコリとキチンと」、「客をもてなす時は、家具を扱うように静かに大事に」、「人に仕事をさせる時は、火を焚くように焚き過ぎたりふすべたりせず」、「自分が仕事をする時は、水を使うように惜しげもなくサッパリと」というものである。

  小松高校がある小高い丘は、今も「養正が丘」と呼ばれていて、坂の途中に近藤篤山の墓があり、静かに道前平野を見下ろしている。篤山ゆかりの小松高校の校歌を、ぜひとも甲子園球場で聴いてみたいものである。トケオ

  Photo 近藤篤山

東京ジェインズウォーク

  20世紀後半の都市思想において、最も影響力があった運動家の一人であるジェイン・ジェイコブズ(1916~2006)は、アメリカの大都市が自動車中心になり、人間不在になっていることに疑問を持ち、1961年に近代都市計画を批判し、都市の荒廃を告発した著書「アメリカ大都市の死と生」を刊行して反響を呼んだ。

  先日、彼女の誕生日である5月4日に、彼女の名を冠した第1回「東京ジェインズウォーク」というイベントが、明治大学主催により、東京中野の街で開催された。自分達が暮らす街をゆっくり歩きながら、もう一度見直してみようという試みである。

  参加者はグループごとにテーマを決め、古地図などを持って土地の歴史を訪ねつつ歩き、終了後に発見したことを写真や映像を使って発表するワークショップがあったようだ。かつて陸軍中野学校があり、江戸の昔には「生類憐みの令」によって保護された犬を数万頭収容した犬屋敷があったことなどを知れば、いま「大学の街」として活気を呈している中野の街は、全く違ってみえてくるのだという。「松山ジェインズウォーク」、地元の大学主催で開催してみてはどうだろうか。(トケオ)

  Photo  ジェイン・ジェイコブズ

内子の三もぐり

「わすれかけの街」によると、現在ホヤケンがある場所はいつごろか内子尚武会の寄宿舎になっていたようです。越智二良の随筆集「たれゆえ草」にも、この寄宿舎にバットやミットをさげた野球選手が多くいて、鬼菊地の末弟ら血気の若者が寝起きしていたとあります。

鬼菊地とは「内子の三もぐり」の一人、菊地秀次郎のことで松山中学から三高へ進学して、剛腕投手として活躍した野球選手です。のちに金鉱技師になって地下深くもぐりました。
ちなみに「内子の三もぐり」の他の二人は、潜水艦乗りで海底深くもぐった重岡信次郎と飛行機乗りで大空深くもぐった(ちょっと無理があります)安達東三郎です。
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丸山定夫

松山アースダイバー的「わすれかけの街」という本によると、現在ホヤケンのある場所に、明治の終りごろ海南新聞主筆編集長丸山常次が住んでいて、その4男が俳優の丸山定夫(1901~1945)だそうです。

以前に読んだ「築地にひびく銅鑼」という本は、天才俳優と言われながらもキャリアの絶頂期に広島で被爆死した丸山の波瀾に満ちた生涯を、榎本健一などの演劇人との交流を通して描かれてあり非常に面白かったのです。
山本嘉次郎監督の映画「坊っちゃん」では山嵐の役で、同じく山本監督の映画「我輩は猫である」では苦沙弥先生の役で出演している丸山が存命であったら、松山の演劇映画の地図はまた変わっていたと思え残念でなりません。
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吉田蔵沢

百済魚文と親交のあった吉田蔵沢(1722~1802)の墨竹画の特質は、伝習的な規範を脱し、無法ともいうべき奔放さで竹を描き、しかもそれが見事に竹になりきっているところでしょう。

「蔵沢の竹を得てより露の庵」 漱石
夏目鏡子「漱石の思ひ出」によれば、漱石は蔵沢の墨竹画を手に入れると大変珍重して、自分でもそれを手本に竹を描くんだーって言って、毛氈の上に紙をひろげて、尻をはし折って、一気に描きあげんといかんのだーって言って大騒動だったみたいです。ガンバレ漱石。

明月2

「ふろふきを喰ひに浮世へ百年目」 子規

「凡そ百年にしてうち時雨たり」 碧梧桐
明治29年に円光寺で行われた明月上人百年の法事によせられた正岡子規と河東碧梧桐の俳句です。碧梧桐、すでに自由律みたいでかっこいいです。明月の奇人変人ぶり、そのマルチな才能ぶりは、碧梧桐にこそ正しく受け継がれたのではないでしょうか。
そういえば、夏目漱石も松山にいる間に明月の書を入手しようと必死に探しますが見つからず、17年後に松山の俳人から送られた時にメチャクチャ喜んでいておもしろいです。

明月

百済魚文と親交のあった明月(1727~1797)は、自ら「解脱隠居」「化物園主人」などと戯号し、自他共に認める奇人変人で、とても魅力的な人物です。

例えば明月が書いた「通機図解」は、江戸時代の気象観測の本で、太陽にかかる雲の形によって、天気を予知することを図で説明している大変ユニークな本です。偶然ネットで画像をみつけたときはびっくりしました。興味のある人は是非検索してみてください。
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わすれかけの街

「街の隣に街があり 人の隣に人がいる 八百屋の隣に風呂屋があり 居酒屋の隣に髪結がある」という徳永民平の詩が冒頭にでてくる「わすれかけの街」という本があります。

昔の松山の様子をうかがい知ることができる松山アースダイバー的なこの本によれば、現在ホヤケンのある場所は幕末の風流人である百済魚文(くだらぎょぶん)ゆかりの地であるようです。百済魚文(1745~1804)は松山屈指の豪商で、俳諧をたしなんだほか和歌、茶道にも通じた風雅の士で、俳諧の栗田樗堂、書の明月和尚、画家の吉田蔵沢らとの親交があったそうです。
寛永7年(1795)と翌8年の2回にわたって魚文の所を訪ねてきている小林一茶もこの場所で酒を飲んだのだろうと思うと、なんだか不思議な気がしてきます。