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くるきち

洲之内徹の美術随想「気まぐれ美術館」にでてくる「くるきち」という伝説の居酒屋は、ホヤケンからすぐ近くの北京町(きたきょうまちと読みます)にあって、洲之内徹は松山に帰郷した際、必ず立ち寄ったそうです。画家、書家、演劇人、詩人などがよく出入りし、芸術や文化論義がとびかっていた当時の店の様子は、実際に通っていたsマスターや専務などが教えてくれます。残念ながら昭和62年に火事で店は焼けてしまいました。

ちなみに店主の金子のぶさんは、コンラット・ファイトのような蓬髪の美男子が好みのタイプだったようで、そういえばむかし松山にたくさんいたような男性のタイプであるような気がしてくるのです。
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ピルゼン

大友柳太朗の松山中学時代の同級生に洲之内徹もいました。美術随想「気まぐれ美術館」は私の愛読書で、何度もくり返し読んでいます。洲之内徹が晩年に通っていた銀座のビアホール「ピルゼン」には当時(昭和60年頃)ポン酢とよく通っていたので、あるときは洲之内徹と同席していたはずだと勝手に思い込んだりしています。 

そんなわけで、今夜は「ポテトフライ」を肴に「ピルスナーウルケル」を飲んでみようかなと思っています。
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タンポポ

伊丹十三監督の「タンポポ」は大好きな映画です。特に大友柳太朗さんがラーメンの達人みたいな老人の役で、丼の奥のほうへそっと移動させた焼豚に「あとでね」と声をかけ、まづ麺からとりかかるシーンなんて最高です。私はいまだにラーメン屋でこれをやります。

ところで、大友柳太朗さん(本名は中富正三)が松山中学校在学中に俳句を勧めた同級生が石田波郷だったというのも驚きで、このような松山における人と人とのつながりの面白さに私はいつも感動してしまいます。
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埼玉県狭山市出身です。その1 (ポン酢)

夏風邪が流行っています。私も3日お店を休みました。
咳が続きます。長引くので、早めの受診がお勧めです。

さて、日本プロ野球は交流戦も終わり、昨日からリーグ戦が再開しています。
なぜか、私は子供の頃からテレビで野球を見るのが好きでした。
女性では珍しいですかね。父の影響でしょうか。
自分と同じ苗字の選手がいたので、小さいときは阪神タイガースファン。
タイガースの帽子を親にねだって買ってもらって、喜んだりしていました。
そんな中、我が家の近所に西武ライオンズがやってきました。
新生ライオンズが球場を構えたのは、埼玉県の所沢市。
私の住んでいたのは狭山市のはずれで、所沢はすぐ隣町でした。
球団の応援歌「若き獅子たち」の歌詞にあるように、
note緑の森に いま沸きあがる~
球場は「トトロの森」で有名になった狭山丘陵の中にあります。
東京都民の水瓶である人造の狭山湖があり、開発が進んだとはいえ、
今でもあの映画の雰囲気のまま武蔵野の面影が残っています。
ライオンズはホームゲームで勝つと花火をあげるのですが(当時)
夜九時過ぎに花火の音が聞こえると、「あ、ライオンズ勝ったな」と分かりました。
でもタイガース愛に染まっていた私は、変わらずタイガースファンでした。
ミスタータイガース頑張れ田淵くんが来てさえも。
もちろんライオンズは身近な存在です。
私のかかりつけの病院長が石毛選手の後援会長だったり、
 (この事はホヤケンにいらした石毛さんに直接お話しできる機会がありました。)
友達の友達の産婦人科で田淵夫人(ジャネットさん)が出産されたり、
弟が電車で偶然隣り合わせたでっかい人が、若かりし頃の清原さんだったり、等等。
地元球団という意識は自然とありました。

この項、続きます。

澤屋まつもと

伊丹万作監督の息子、伊丹十三監督は京都伏見にある松本酒造さんと親交があったようで、伊丹映画には「澤屋まつもと」の一升瓶がよく登場しています。時々ポン酢が発見して喜んでいますが、どの映画だったか一升瓶がピラミッドのように積み上げてある場面があったような。 

ホヤケンでは伊丹十三監督の愛した酒として、開店以来イチオシしています。とにかくどんな肴にもよくあうスッキリとした辛口で、いつまでも飲みあきることがない素晴らしいお酒です。
「酸は控えめで、はんなりとした優しさ。品よく伸びやかで、多様な味が感じられるが角はたっていない。だしの効いた料理と。」と、ある酒ジャーナリストがテイスティングしてコメントしています。是非一度飲みに来てください。
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伊丹万作ら3人が共同ではじめた松山三番町のおでん屋「瓢太郎」は、昭和2年春には開業から1年余で経営不振に陥り、この年の夏はやくも閉店しました。その結末について、伊丹万作が書いた自伝的文章「私の活動写真傍観史」にはつぎのようにあります。 

「かくて私はついにマイナスつきの無一物になった。それはさびしいけれどもまことに身も心も軽々としたいい心持のものであった。いっさいの付属品と装飾を取り去られたのちの正味掛け値なしの自分の姿を冷静に評価する機会を持ち得たことはともかくありがたいことであった。この付属品なしの自分の姿は、それからのちの私の世界観を正す一つの基準として非常に役立つことになった。」
そして、後に映画界に入って名監督となった伊丹万作は常に「数字でいう、性質の符号の装飾を除き去った絶対値だけを永久に友人の中に信じる」と言い続けました。私がホヤケンで接客する際に心がけていることも、伊丹万作のようにその人にまつわる性質の符号をできるだけ取り払ってしまうことに尽きるのではないかと考えています。
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瓢太郎

ホヤケンがある松山三番町というところは、昔々のちに映画監督となる伊丹万作(当時は池内の豊さんと呼ばれていたはず)が、仲間達と3人でおでん屋「瓢太郎」を開業した場所です。この3人の通人ぶりは「瓢太郎」の経営にも遺憾なく発揮され、おでんのタネの芋ひとつにしても京都の山科からとりよせるという凝りようで、とにかく松山で初めての関東風おでん屋として界隈で大変な評判となったそうです。一番の洒落者である重松鶴之助は、気障といえばまことに気障な唐桟の袢纏に火消し装束の腹掛け、股引のいでたちで客のサービスをし、近所の置屋へ出前にも歩いていったといいます。

ホヤケンも、いつかそんな伝説の店になれるよう頑張っていこうと思っています。
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紙トンカツ

昭和12年頃の話。石田波郷が所属していた馬酔木の発行所は神田にあり、周辺に渡辺白泉や西東三鬼がいた。彼らの溜まり場のひとつが神保町にあったビアホール「ランチョン」で、そこの料理が値段の上で格好であるから、ビールの杯をあげつつよく談笑していたらしい。トンカツが薄くて大きく、特に波郷が最もこれを愛用して、「カツレツは薄く大きいのに止めを刺す」といって笑っていたという。 

ホヤケン開店以来の定番メニュー「紙トンカツ」。おいしい生ビールの肴に波郷の愛した薄いカツレツを是非どうぞ。(トケオ)
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誠鏡

「弔詩 石田波郷君 今日ここに現世の君と別れを告げるに当たって、暫く眼をとぢてゐると、君との三十余年に亘る交わりの、いろいろの場面が心に浮かんで来る。そうしてその一つ一つがすべてなつかしいものばかりである。近い例を一つ挙げると、君の最後の入院に先立つ二三年、毎年正月には私の家に来てくれた。それも二日の午前ときまってゐて、必ず好い天気であった。当時私の家には広島の銘酒誠鏡があった醸造元が俳人で、一番よいものを送ってくれたからである。私の家でも二日を楽しみにして待ってゐた。若い頃の君だと、二十余歳の年齢の距りがあって共通の話題に乏しいので、対談が一時間とはもたないのであったが、その頃君は、硯や墨が急に好きになり、いろいろの本を読んで知識が豊富だったから、実に楽しく話がはづんだ。心の奥と奥とで触れ合つた感じで、私は実に嬉しかった。」 

 水原秋櫻子が石田波郷に送った弔詩の一部分です。ホヤケンでは、波郷も好きだった酒ということで、酒屋さんにあれば必ず買って、みなさんにおすすめしています。飲んだら鼻が通るといって喜んでいるピアニストもいます。(トケオ)
Photo_6 石田波郷

丸干し

昨日はお客様と店のテレビでサッカー観戦。

ヤキモキしたけれど、W杯出場が決まってよかった~。
こういう時のおつまみにぴったりなのが「丸干し」です。
昨日はカタクチイワシの丸干しでした。
干し魚は硬いイメージがありますよね。
でもうちでお出ししているのは愛媛産の柔らかいタイプです。
新鮮さが残っていて、熱が入るとハラワタが融けて、その甘苦さがたまりません。
大人な味です。
香川君のシュートがもう少しでゴールになりそうだったのに~の時に、ひとかじり。
川島君がファインセーブして、ひとかじり。
座持ちもするし、何のお酒にもあうし、強いて言うなら「遠藤」なタイプかな。(無理やりです)
箸を使わずに手で食べられるところも好きです。
丸干し持って、「持ってる男」本田君を応援しましょう!(ってやっぱり無理やり)

ホヤケンノート始めました。

しばらくぶりにブログを再開します。

ホヤケンのこと、お酒、おつまみ、趣味のこと(野球サッカー観戦、沖縄民謡、俳句などなど)を書いて行きます。

お楽しみに。

 六月を綺麗な風の吹くことよ 子規

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